町のプロフィール
真鶴町は、東経139度8分26秒、北緯35度9分16秒に位置し、北西−南東に長軸を有し、長さ約7km、幅約1km、面積7.02k�の県内で2番目に小さな町です。
全町域が起伏に富んだ複雑な地形をなしており、平たん地はほとんどなく、JR東海道本線を境にして、北部と南部に区分することができます。
北部は、小田原市と湯河原町に接し、箱根火山の山麓部であり、主として星ヶ山に源を発する岩沢川に沿う地域です。この北部の高地部分は、一部で石材採掘が行われていますが、そのほとんどは森林に覆われており、約1㎢は自然環境保全地域となっています。山裾の緩斜面には、樹園地が広がっており、みかんの栽培が行われています。最近、JR真鶴駅裏地区及び岩字馬場地区を中心に住宅が増加し、新興住宅地を形成しています。
南部は、相模湾に面しており、箱根外輪山の岐脈が遠く突出し、真鶴半島を形成し、美しい自然景観をつくり出しています。この半島部分と東部の新島高地との中間に広がっている南東斜面が本町の中心となっており、この地域は、更に小起伏により、真鶴地区と岩地区に分かれています。
なお、北部山麓部の面積は約4㎢、南部半島部の面積は約3㎢となっています。
町の沿革
真鶴町は、むかし師長の国の領域であったと推定される。大化の改新後の国郡制においては、相模国垂氷郡に編入された。平安後期国郡制の崩壊により荘園が発達すると早川庄に包含され、鎌倉時代には豪族土肥一族の所領として土肥郷と呼ばれたが、小田原北条氏の支配下では福浦村とともに真鶴・岩両村は土肥郷から分離した。
江戸時代は小田原藩の治下にあったが、明治維新後、小田原県、足柄県を経て明治9年、神奈川県小田原支庁第21大区に編入された。
明治17年真鶴村、岩村、福浦村は連合して真鶴村外2ヶ村役場を設け、真鶴村に戸長役場が置かれ、明治22年町村制施行後も役場事務組合として役場事務を共同処理してきたが、昭和2年9月28日付で真鶴村は真鶴町と改称した。
その後、昭和21年7月27日役場事務組合を解散し各個に役場事務を処理することとなったが、町村合併促進法により真鶴町と岩村は昭和31年9月30日に合併して新真鶴町となり現在に至っている。
町の全景
町の位置